自分が好きな曲という明快な基準で選ばれたのはアラン・トゥーサンの「フリーダム・フォー・ザ・スタリオン」、沢知恵の「こころ」、西条八十作詞・服部良一作曲の「蘇州夜曲」、スティーヴィー・ワンダーの「輝く太陽」など、古今東西の22曲。この4月に2作同時リリースされたアン・サリーさんの『day dream』と『moon dance』は、いわゆるカヴァー集だ。しかし、アンさんが歌うと、それぞれの曲はアンさんでなくては表現できない音楽として、新たな輝きを放つ。透明感があるのだが、蒸留水といった印象ではなく、微小な色素の粒子が含まれているような声。その声は一度聴いたら記憶にずっと残るような力をもっている。
「今回はマイクにかなり近づいて歌っているんですね。私はジョアン・ジルベルトの『三月の水』みたいな、声の細かい成分まで録音されているような生々しいヴォーカルのタッチが好きで、ああいう世界がどうやったら再現できるのだろうと考えたのです。マイクに近づくと小さい声で表現することになるのですが、それって、やってみると意外と難しいことでした」
中村善郎やショーロ・クラブの笹子重治、秋岡欧といったミュージシャンが参加したオーガニックな音もアルバムの魅力だ。
「10日くらいでレコーディングしているので、必然的に一発録りが多くなり、アプローチがジャズ的になっています。何テイクか録りますが、演奏も歌も一度なりとも同じようにはなりません。そのなかでいいテイクをCDに収めています」
父が医師の家庭に生まれたアンさんは自らも医学の道を志し、現在は心臓内科医として、ニューオーリンズの病院で研究生活を送っている。昨年1月に渡米する前の4年間は臨床医療の現場で働き、人間の死に何度も接してきた。
「そのときに家族がどういう反応をするかというのを含めて人の死を見るということなので、非日常的な体験ですよね。厳しい経験ですけど、何かに直面したとき、姿勢を正して、目をきちっと据えていなければいけないということを教えてもらいました。歌に接するときの心の重心の置き方、意識の集中のさせ方というのが、患者さんを目の前にしているときの姿勢と同じような気がするんです」
5月24日にSHIBUYA-AXで行なわれたライヴで次のようなシーンがあった。ミルトン・ナシメントの「トラヴェシア」を歌っている途中、感極まって泣いてしまったのである。曲の素晴らしさを知る人なら、頷ける話だろう。
贈り物にしたい1曲として選んだのは、ニーナ・シモンの「The Human Touch」だ。
「世の中に生きていると、人のタッチを忘れがちになってしまうという歌です。都会では時間に追われて、人のタッチというものを感じる間もなく生活していらっしゃる方も多いと思うので、忘れている感覚を思いだしていただけたらいいですね」
text by Akira Asaba
photo by Atsuko Takagi
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