エッセイ/一喜一憂のパリ |
Vol.66
日本の家庭の食卓に漬け物が欠かせないように、フランスではチーズが必需品。発酵食品で、塩分をほどよく摂取できるという点では似ているが、食べるタイミングはデザートの前。チーズは消化を助けてくれるという。拙宅にも常に数種のチーズが冷蔵庫の中に入っているが、最近のマイブームはコンテ。 フランス東部、スイスに隣接するフランシュ・コンテ地方のジュラ山脈。その広大な牧草地で放牧される牛たちのミルクで作られるハードタイプのチーズだ。 実は数年前の冬に、このジュラ山脈を訪れたことがあって、骨身にしみるような寒さの日には、パリにいてもジュラで過ごした過酷な数時間を思いだす。 フランス人の友人の、「雪の中のハイキング、すっごく気持ちいいからおいでよ」という誘いにホイホイと乗って出かけていった。到着するなり、「これ、履いて」と差しだされたのは、バドミントンのラケットに似た木製の履物。その名もラケット。日本で言うと、かんじき。極寒の空の下、かじかむ手で扱いにくい革の紐を結び終えると、雪をかぶったモミの木が林立する山道へと入っていった。巨大なクリスマスツリーに囲まれているような幻想的な雰囲気だが、寒さと歩きにくさで、感動している余裕がない。 雪の深みにズボッと埋まると、引き抜くために大きく足を持ち上げるという、普段はしない肉体的努力を強いられる。想像もしていなかった特訓並みの「ハイキング」に、10分も経たないうちに私は弱音を吐き始めた。鬼コーチのような友人は、そんな私をせせら嗤いながらスタスタと進んでいく。その後ろ姿が悔しくてしばらくは奮闘した。なんとかリズムをつかんで、わっせ、わっせ、なんて大昔を思いだすような掛け声まで出てきたその時、突然、天候が変わり、吹雪いてきた。容赦なく顔に打ちつける雪、ますます重くなる足に、今がチャンスとギブアップを宣言し、逃げるように来た道を引き返した。 ジュラ紀の恐竜が顔を出すのではないかと思うような深い森をひとり歩く恐怖もなんのその、かんじきを脱ぎたい一心でスタート地点へ。忌々しい履物を脱ぎ、最初に目に入った山小屋に飛びこんだ。幸運なことに、ジュラの名産、コンテチーズとワインを楽しめる素敵なお店だった。店長らしきおじさんが、「まずはこの一杯で温まって」と、ヴァン・ショー(ホットワイン)を出してくれた。五臓六腑に染み渡る美味しさというのを味わった瞬間だった。 正気を取りもどし、店内を見渡すと、大きな円盤形のコンテチーズが誇らしげに並んでいた。直径65センチ、重さ40キロの薄い黄色の塊。他にお客さんがいなかったこともあり、おじさんはコンテがどのようにしてできるのか話してくれた。温暖な季節に一頭あたり1ヘクタール以上の牧草地で放牧され、秋の終わりに牛舎に戻され、長い冬は干し草のみで飼育される牛たち。食べた草花の風味が薫るミルクらか作られたチーズは、チーズ工房で表面を塩水で拭かれ、4ヶ月から18ヶ月も熟成されるという。 牛に付けられたベルの音が風に乗って流れてくれるような、そんなのどかな季節に来るべきだったと後悔しつつ、いくつか味見をさせてもらった。硬質でありながらほっくりした食感と、ぎゅっと詰まった旨味に、すぐさま心を奪われた。ジュラ産の、紹興酒にも似たヴァン・ジョーヌ(黄色いワイン)はあまり好きになれなかったけれど、辛口の白との絶妙なマリアージュも好みだった。 以来、すっかりコンテのファンとなり、カルシウムの供給源、高血圧予防、美肌効果と、勝手に色々なことを期待しながら毎日のように食べている。今は一年以上熟成したタイプがお気に入り。舌に乗せると少しじゃりっとしてアミノ酸の結晶が感じられるのがなんとも言えない。 スノーハイキングは思いだすのもこりごりだが、あの「特訓」があったからこそ、この芳醇な味わいに感じ入ることができるだと思うと、スパルタの友人にも感謝しなくてはならない。
翻訳者。上智大学仏文科卒。エマニュエル・ラボリ『かもめの叫び』(角川文庫)、スアド『生きながら火に焼かれて』(ヴィレッジブックス)、北野 武/ミシェル・テマン『KITANO PAR KITANO』(早川書房)、リシャール・コラス『波 蒼佑、17歳のあの日からの物語』(集英社)など多数。 翻訳のかたわら、フランス人シェフの夫、ドミニク・ブシェのパリと東京のレストランでマダム業もつとめる。 最新刊:2016年ゴンクール賞作品 Illustrated by Mie Onodera |